奪う愛&捧げる愛

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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<愛情の喪失>
 愛とはどんなものか。愛情の本質は何か。われわれは、これに答えるために、まず愛情を欠いた状態を観察したい。空気とはどんなものか、を知るために真空をつくってみるように、愛情を明らかにするのに、愛情を除去してみる。もちろん人為的に除去はできないが、自然がそれを除去した状態を作り出してくれるので、これを利用する。精神分裂病という病気の場合である。
 初期の「自分の精神状態を語ることのできる」精神分裂病者は、しばしば、こう訴える。「母親が訪ねてきても、すこしも喜ばしく感じなくなった。恋人にあっても、以前のような感情が湧いてこない。」
 この病気は進行するに従って、あらゆる感情が鈍ってゆくが、少なくとも、その初期には愛情の減衰が一つの重要な症状になっている。彼らは人々から離れて生きようとする。
 精神分裂病者を観察する時、我々は、彼らの愛情の減衰は、「他人と共に生きる欲求」を無くしてしまったことと関連していると推測することが出来る。生物の世界に「共生(共棲)」ーシンビオシスーと称せられる現象がある。地衣類では菌類と藻類が共生しているし、イソギンチャクとヤドカリ、アリとアブラムシなどは、いっしょに生活していて、お互いに利益を得ている。
 この生物学の言葉を借用して、これを拡大し、親子がもちつ、もたれつに生活する場合や後天的に作られた社会的な共同生活の傾向を含めて使うこととする。母親の胎内にいる胎児は、母親と共生しているし、生まれた後もコドモは両親と共生の状態にある。さらに人間の社会生活も一種の共生だと言い得るであろうし、外国に出張している夫と手紙のやりとりをする妻は、物理的には離れていても共生しているということが出来る。精神分裂病では、共生が行われず、共生しようという欲求が失われているのである。


<共生の概念>
 共生という概念は、生物学に於いても、必ずしも明確なわけではない。この言葉を、ここで採用する時には、なおさら、はっきりさせる必要がある。
 第一に、最も広く使うならば、二人以上の人間が共同生活をしていれば「共生」と言えないことはない。生物学でも、ただ、2つの違った生物がいっしょになっていると共生ということがある。
 同じマンションやアパートに住んで、お互いに何の関連がない生活をしていても、この意味では共生である。しかし、ここで「共生」と呼ぶのは、このような「物的な共同生活」という広い意味ではない。
 第二に、ある程度、広い意味に用いて、意図して共同生活をする場合を全て「共生」ということが出来る。本当は、別々に暮らしたいが、習慣上(嫁と姑の場合のように)または経済上(居候の場合)の理由で共同生活を望んでいる、というのも、この「共生」に入る。
 その人は、「共生」しようとして共生しているのであるが、他の目的のために、それを欲しているのである。ここでは、この意味に、共生を使わない。ただし、一般に、世の中に手段が目的化することが多いように〜金は幸福を得るための手段だが、大金を抱いて大往生を遂げる者もある〜手段である共同生活が目的となって、共同生活そのものが楽しい、という状態になることもある。これは、次の意味の共生の一つである。
 第三に、共同生活のために共同生活を求める場合を、真の共生だと定義することができる。恋人たちは、いっしょの時間をもとうとする。夫婦は同じ所に住もうとする。友人は、別々に遊ばずに共に遊ぼうとする。遊びが一つの目的であるが、友人といっしょにいたい、というのも目的である。
 以下、共生と呼ぶのは、この意味であって、「共生とは共生欲求を満足させる行動だ」ということも出来る。この「共生」という考えを採用することによって、無意識的な愛情から高級な愛情に至るまで、ひとまとめにして扱うことが出来る。
 精神分裂病は、共生を失っているが、世の中には「マイナスの共生」も存在する。憎しみあっている親子や夫婦がないわけではない。彼らは、生活を共にしているとしても、精神的には、もちつ、もたれつの生活をしているのではない。物的な共同生活〜例えば、同じ家に住まっているといった生活〜は、多くの場合、精神的共生の条件であるが、同時に精神的には「マイナスの共生」の原因になることもある。この点は、後に、若夫婦の別居問題を論ずるとき、触れることにする。
 精神分裂病の場合、共生が不可能になっても、何らの苦痛を感じないであろうし、憎しみ合っている夫婦は、共同生活の解消を、かえって望むに違いない。これに反して、親子や夫婦の間では、これが失われたときには苦痛と緊張が出現し、これを回復しようとする行動が生ずる。
 これは「共生」が正常の人間にとっては空気、食物、性欲、睡眠などと同様に、必要なものであり、これに伴う欲求があることを示すものだからである。


<共生の欲求>
我々には共生の必要があるし、これは共生したいという感じ(欲求または動因)を引き起こす。
 それは食物の必要が腹のすいた感じ(飢)を生じ、水の必要が喉の渇いた感じ(渇き)を起こすのと同様である。ただ、食物や水の必要性は生物学的で、先天的であるが、共生の必要性は後天的に作られるものが多い。愛情は共生の必要によって引き起こされた欲求に他ならない。
 飢えの欲求は食物というもの(誘発因)によって満足されるが、愛の欲求は自分のコドモ、夫や妻または父や母と共生することによって満足される。共生できれば、欲求に伴う緊張は、飢えた時に食物を食べる場合のように、解消されるであろう。
 しかしながら、二人の人間(親子または恋人同士)が二人であって、決して一人にならない限り、共生は常に、絶対完全なものにはならない。共生への欲求は異体同心の状態に向かって、限りなく近づいてゆくほど激しく強いこともある。
 このように、共生を失った状態から愛情を考えようとしたのであるが、これは同時に、次のような、様々の共生〜したがって、様々の愛情〜があることを示す。


(1)頼り、頼られる愛情。精神分裂病者は他人に頼りたい、頼られたいという気持ちを失う。愛情の、ある種のものは少なくとも、このような関係であると言える。攻撃が「怒り」の感情に関係を持ち、逃避が「恐れ」の感情に関連するように、外にあらわれた行動は、頼り、頼られる関係で、内部の意識(感情)は愛情だと言うことが出来る。
 この、頼り、頼られる関係は本能的で、生まれつきのものなのか。生まれたばかりの赤ん坊は、世話をしてくれる人(一般に母親)によりかかる。乳を飲ませてもらい、おむつを代えてもらい、服を着せてもらう。母親によりかかると、このように食欲その他の欲求が満足される。これによって、母親といっしょにいたいとと思うようになるし、母がいないと泣き叫ぶ。泣くと母が来てくれるからである。何らかの先天的の傾向〜後に述べるように、アメリカの、ある心理学者は、接触の欲求が存在するとした〜はあるとしても、母への愛と称せられるものが、大部分後天的に(条件反射として)作られることは否定できない。最初、他の欲求を満足させる手段だった母親が目的になる。
 このような、頼りたい傾向は大人になってからもなくならない。大人になると、独立した人間になり、自分の人格を持つが、親との共生関係は失われないのである。


(a)心の奥底には子供時代の経験が残るし、母親がいない場合でも、母親にもたれかかりたい欲求は存続する。戦死する瞬間に「お母さん」と叫んだ兵士たちの実例は、これを示すであろう。
 老いた母親は子供のために負担であろうが、それにも関わらず、母親に頼りたい気持ちは消えてしまわぬことが多い。


(b)ただし、この頼りたい気持ちが母から他の人に転ずることもある(転位)。父が母の代わりになることもあるし、祖母が代わりをすることもある。母を失って、祖母に対して母に対する場合と同じ気持ちを持つ人があるし、全くの他人に向けられる場合もあるが、母を失わなくても、母との共生にヒビが入ると、他の人に転位する。
 特に、子供が成長するに従って、共に生活する範囲が、家族から隣人集団(遊び仲間)、学校、職場と変化するにつれて、その集団の中で、頼る人が求められることになる。
 ところが、子供は、頼ると同時に、自分を世話してくれる相手(一般に母)の態度をまねようとする。母と自分を同一視する。母が自分をかばうように、自分も他人をかばおうとする。このようにして、頼り頼られる態度が出来上がるのである。


(二)性的の愛情
 性的行動によって性的快感が得られると、これで性的欲求が満足される。しかし、性的行動は、単に生理的なものだけではなく、社会的なものであって、性的交渉という一時的なものでなく、持続的に男と女を結びつける。男女は独立した人格を持っているが、この二人が生活を共にしようとする。男女が共生したいという欲求が、親子の愛情とともに、人間の重要な愛情であることは、共生欲求を失った〜または、それが歪められた〜精神分裂病者に異性への、正常な愛情が存在しないことからも明らかであろう。彼らは、異性と、もちつ、もたれつの生活が出来ない。独身者が圧倒的に多いし、たまたま結婚しても離婚しやすい。
 精神分裂病に対立する精神病(内因性精神病)に躁鬱病があるが、この病気にかかった者も、病人である以上、むろん結婚の機会は多くない。しかし、マルズバーグの統計によると、この二つの精神病者には差がある。すなわち、まず、女性に於いて独身と既婚者の比は、躁鬱病ではわずかだが(19.5対15.7)、精神分裂病では、ほとんど6倍にも達するほどである。
 このことから、簡単には、精神分裂病のほうに独身が多いとは決められない。しかし精神分裂病者のほうが、いくらか若いうちに発病するので、結婚しないうちに発病し独身者が多いことになるだろうし、精神分裂病者のほうが適応がうまくゆかずに仕事が出来ないために、結婚出来なかったことも考えなくてはならない。愛情はあるが引っ込み思案のために、結婚するチャンスが少なかったということもあろう。
 しかしながら、たまたま結婚した者で離婚する場合も、精神分裂病者に多い。精神分裂病者が躁鬱病者よりも、周囲に対して適応がうまくゆかず、生活に支障をきたすということも無視できないことではあるが、愛情が共生と関係のあることを推測させるものと言えよう。


(三)友愛的の愛情
 上述の場合以外に、遺伝的で本能的な、共生の欲求がある。羊を群れから離すと不安状態となり、仲間といっしょにすると満足する。このような動物では、実験の時、一匹にしておくので、じっとしておらず、困らせられることが少なくない。これは先天的と考えられているが、さらに、生まれたばかりのヒナは、やっと立ち上がるばかりなのに、同じく生まれたばかりのヒナの所にゆこうとするし、これが妨げられると不安を示すのは、明らかに生まれつきの反応と言えよう。蜂の群れにせよ、渡り鳥の群れにせよ、あまりにも多くの動物が「種」に共通した、遺伝的で社会的な行動を行なっている。
 もちろん、羊は子供のころから孤立して生活させておくと、このような群居性は変化して、群れの中にいても離れているようになるから、後天的な条件が影響しない訳ではない。特にどんな相手といっしょに居たいか、という相手の選択は、後天的に(学習によって)決められる。したがって、群居し共生しているのは、同じ仲間だけではない。アフリカでシマウマとウマ、野牛とゾウが群れをなしていることは知られている。共生するのは、少なくとも相手に脅威を与えないものであることは言うまでもない。また、子供のロバをメスの馬とともに育てると、ロバといっしょになりたがらず、メスの馬とだけ交わる。
 人間の愛情は母と子の間の、守り、守られる関係から後天的に発生するが、それ以外にも、友愛的の共生というべき共生の型があること、子供が同じ年輩の子供と遊びたがるのは、このような共生であることが考えられる。
 人間が孤独でいる時、不安を感ずるのは、他人に寄りかかりたい欲求に基づく場合以外に、友愛的の共生が満たされないということ、つまり単に他人と離れているという理由によって生ずることもある。我々は他人と共に居たいのである。
 もちろん人間は常に、共生だけを欲するものではない。栄養物は人間にとって欠くことの出来ないものだが、食物を食べすぎると、それ以上には食べたくないようになるし、人間は活動を欲するが、活動の後には休養を望むことになる。共生の欲求も同様であって、一時的には、相手と離れていたい欲求を生ずることもある。しかし、このような傾向が生ずることは、決して、人間に共生への傾向がないという意味ではない。
 また、夫婦生活に於いて、行動の仕方が一致していること、一致した行動を取ろうとすることは、結婚生活が幸福であることを示すが、おそらく、同時に、互いに愛情を持っている証拠であろう。すなわち、このように一致した行動を取ろうとすること、お互いにコミュニケーションがうまくゆくことは共生の条件である。


<奪う愛と捧げる愛>
 恋愛のうちには、相手の獲得にあらゆる情熱を注ぐものがある。共生するために、相手を「自分のもの」にする。しかしながら、恋愛には、他方、全てを相手のために捧げようとする傾向がある。共生するために、自分を「他人のものに」にするのである。
 この二つの傾向は、恋愛だけでなく、全ての愛にみられる。これはピションが、愛情に二つの型を区別して、それぞれ「奪う愛」と「捧げる愛」と呼んだものに相当する。「奪う愛」は、自分が積極的に愛するよりも、自分を愛させようとするもので、子供が最初に持つのはこの型の愛情である。精神的に発達するに従って、「捧げる愛」が出来てゆく。子供は積極的に、自分を投げ出して、他を愛するようになる。
 しかし、この両者は、全く異なったものではない。生活をともにするには、相手を取り入れ自分と同じにさせようとするか、自分を相手のうちに打ち込み、自分を相手と同じにさせようとするかである。「奪う愛」が全くなしには「捧げる愛」はないし、「捧げる愛」の要素なしには「奪う愛」もない。「奪う愛」も「捧げる愛」も、共生の形の違いである。
 恋愛が「奪う愛」に傾くことが多く、母性愛が「捧げる愛」を主とすることは事実である。
 有島武郎は「惜しみなく愛は奪ふ」ことを述べた。
 「見よ、愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することにのみ全力をつくしているのだ。愛はかつて義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることを許しつつあろうともあるまいとも、それらに煩わされることなく愛は奪う。もし、愛が相互的に働く場合には私達は争って、互いに互いを奪い合う。決して与え合うのではない。その結果、私たちは、互いに何物をも失うことがなく、互いに獲得する。人が通常いう愛するものは二倍の恵みを得るとはこれをいうのだ。私は予期する通りの獲得に対して歓喜し、有頂天になる。明らかにその獲得に対して感激し感謝する。その感激と感謝とは偽善でも何でもない。・・・私は明らかに他を愛することによって、全てを自己に取り入れているのを承認する。」
 しかしながら、恋愛といえども、「捧げる愛」を含むことが少なくないし、母性愛と言えども「奪う愛」を含んでいない訳ではない。母が息子を独占しようとして、嫁ー姑の問題を起こすのは、その証拠であろう。


<愛情と状況>
 人間の行動は、その時の状況に支配される。磁気の「場」、電気の「場」のような「場」に相当する心理的な「場」を考えなくてはならないし、「場」によって行動は変化し、目標に向かう力の強さも変る。例えば、ネズミを迷路に入れ、中央に餌を置いておく。ネズミは、迷路を通ってこの餌の所にゆくことを学習する訳であるが、目標に近づくときには、目標に近づくほど、早く道をよく覚える。心理学者が目標傾斜と呼ぶものである。
 ところで、人間の愛情はそれほど簡単ではないが、やはり「場」の状況に支配される。他人に対する愛情は、ある程度、共感や同情に関係するが、共感や同情の強さが、時間的空間的に距離が出来るに従って減衰することは一般に知られている。チリの地震で何千人が死んだというニュースは、目の前で子供が転んで怪我をしたほどの同情を呼び起こさない。遠くの人よりも目の前にいる人に共感し、昔の人の不幸よりも現在の人の不幸に同情する。
 共感や同情が愛情と結びつき、その条件を成す以上、同様なことを愛情一般についても考えることが出来る。
 十分に食べた後には、食べたくなくなるように、愛情すなわち共生の欲求も、それほど強くない時には、分離の欲求に転ずる事がある。
 しかしながら、それが満足されないにもかかわらず、分離しているために、かえって共生の欲求を失う場合も出てくる。「去るものは日々に疎し」という現象である。ある程度の分離は、飢えのように愛情を強めるし、分離していることが恋愛を育てる条件になるのであるが、分離がある限度を超すと愛情が失われてくる。共生の欲求が、他の相手(他の人間・動物など)に転ずるのである。

 空気への欲求は空気を吸わなくては満足されないし、水への欲求は水を飲まなければ無くならない(牛乳でも良いし、ビールでも良いが、これは水を含んでいるからである)。このように、生理的欲求は、一般に対象(水とか空気とか)がほとんど先天的に決まっている。ただ、性的欲求は後天的条件によって異性の代わりに同性が選ばれたり(同性愛)、子供が対象にされたり(幼児愛)、動物が相手にされたり(獣姦)することがある。
 共生の欲求に於いては、対象は(恋人でも親子でも)後天的に決められるものであるが、それは同時に、その後の諸条件によって相手が変化することを意味する。愛情は「場」の条件によって変化しやすいのである。


<愛情の種類>
 以上、愛情とは何か、ということを述べてきたが、これは、ごく一般的な愛情の性質であり定義である。実際は愛情には多くの種類があり、様々の形態がある。共生とはお互いに、もちつ、もたれつの生活をすることであるし、助け合って生きてゆくことであるが、様々な共生の仕方があるのである。
 マックス・シェーラーは、愛情〜というより、愛情に類似した現象〜の種々の形式を取り上げた。
 第1に、他人と完全に合一したと感じ、自分と他人の区別のなくなる状態がある。この「合一感」とでもいうべき体験は、未開人の考え方にもあり、普通の人の催眠状態にもみられるが、指導者と指導される者の間にも存在している。
 この合一感は、愛する二人の間、母と子の間にもみられ、真の愛情の土台になるものではあるが、愛情そのものではないと、シェーラーは考える。それは意志的なものでなくて、原始的であり、動物的なものである。
 この合一感を土台にして、同情感が発展する。我々は他人の喜びや悲しみを自分の喜びや悲しみと感ずる。これは、社会生活には必要なものであるし、真の愛情のうちに含まれているが、これもまた、真の愛情ではない。
 真の愛情は、こんな原始的な、感情的なものでなくて、相手の「人格」を認めた愛情だという。動物の母親が、どんなに、熱心に子に近づこうとするか、は本能的であって、シェーラーのいう真の愛情ではない。彼にとって、あの女性は美しいとか、彼女は頭が良いとかいうように、個々の性質を好むのは真の愛情ではない。真の愛情はその人格全体〜個性をもった人格〜に向けられるものだけである。
 私は、愛には、さまざまの形態と種類があると考えたいし、相手と共に生活したいという共生欲求がある限り、愛情とみなしたい。
 人間の生活では、「共生」は経済的条件と関係があるし、生活の困難な人たちの場合の共生と、経済的に余裕のある場合の共生は同じではない。生活の困難な人たちの共生は、まず、助け合って衣食を共にすることだが(やむを得ず、共同生活をしているが、助け合いたいという気持ちを持っていないのは共生ではない)、経済的に余裕のある人達の共生は、ともに音楽を聞くとか、ともに人生を語るとかいうように、より精神的な傾向がある。貧乏人が金持をさして、愛情がないとか、冷たいとかいうことが多いのは、この共生の性質が違うからに他ならない。
























 

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