天才モーツァルトはどこまで「異端」だったのか?

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<モーツァルトに於ける「異端」の意味>
 「異端」とは「正統」に対する概念である。「正統」から外れたものを、人は微かな、ときにあからさまな非難の意味合いを込めて「異端」と見なす。


 数の上でももちろん「正統」が多数だが、質的に「異端」より上であるとは限らない。「異端」の方が「正統」より優れている場合も往々にしてあり、むしろ、それゆえにこそ、人は異端を嫉視し、排除しようとする。


 仮に、この「正統」という言葉を「凡庸」「凡俗」に置き換えると、「異端」はさしずめ、「非凡」となり、人間を指す場合には、凡庸な人は凡人、非凡な人は天才、ということになる。


 そう考えてくると、モーツァルトに「異端」の要素があるとするならば、それは、モーツァルトの天性そのものが「異端」であった、つまり、天才であったことこそが、モーツァルトをして凡人と一線を画する高みに置いていたと言える。


 だから、モーツァルトは、異端者としての孤独と悲しみをいやというほど味わい、それを紛らわそうとして、または、糊塗しようとして、ひょうきんな言動をとり、あるいはスカトロジーに満ちたギャグを連発し、手紙にもそのネタを溢れさせた。


 後世の一部の人は、その面だけをクローズアップして、一般人とは乖離した奇抜な性癖のある人間、即ち、異端子であるという風な評価をモーツァルトに下すが、そうした言動は、天才の照れ隠しとも言うべき表面的な現象だ。


<幼児期から人と違うことに気づく>
 モーツァルトは非常に早い時期、3〜4歳の頃に姉ナンネルのクラヴィーア・レッスンを傍らで聞き覚えて3度の和音を正確に引きのけたという時期から、自分の音感や記憶力が他の人より精度の高いものであることに、漠然と気づいたはずだ。


 自分には難なく出来てしまう1つの音楽行為が、父親や周囲の人間たちを驚かせ、賞賛されるのを、最初のうちは不思議にも思い、無邪気に得意になってもいたのだろうが、いつしか、人と異なる特別に高度な楽才に、一抹の孤独感も感じるようになったのではなかろうか。


 この時期のモーツァルトは、初対面の人に必ず、「ね、ぼくのこと、好き?それともきらい?」と聞いて相手を面食らわせたという話が伝わっている。これも、自分が選ばれし者=異端であることを知ってしまい、それゆえに、大多数の正統=凡庸、凡俗の人々から疎外されるのを恐れた幼いモーツァルトなりの、相手の気持ちを推し量って身を護る方途だったように思われる。


 それでも、モーツァルトは学校に通わなかったので、同年齢の子供たちと自分を比べてみる経験を持たなかったし、ほぼ唯一の遊び相手である姉ナンネルもモーツァルトに近い音楽能力の持ち主であったから、それほど、自分が特別であることを強く意識せずに済んだであろう。


<異端を武器とできた天才少年時代>
 けれども、6歳で最初のミュンヘン旅行に出たのを皮切りに、ウィーン旅行、西方大旅行と長期演奏旅行を繰り返し、行く先々でクラヴィーアの妙技を披露して大人たちの絶賛を浴びるようになると、これはもう、拗ねている場合ではなく、自分の天与の楽才を肯定してそれを武器に世を渡っていくしかないことを悟る。


 それが最も成功したのは、1762〜63年の最初のウィーン旅行でオーストリア皇帝フランツ1世とその共同統治者であるマリア・テレジア皇后夫妻に御前演奏を披露して、皇后の膝に抱き上げられてキスを賜るほどの栄誉を受けた時、次の西方大旅行の途中、パリ郊外ヴェルサイユ宮殿でフランス国王ルイ15世一家に拝謁出来た時、及び、そのあと訪れたロンドンでも英国王ジョージ3世とシャーロット王妃に謁見して演奏を賞賛され、後日、「ヴァイオリンとクラヴィーアのためのソナタ」K10~K15の6曲に自筆献辞を添えて、王妃に献呈した時であろう。


 つまり、6歳から9歳にかけての10歳未満の幼少年期に、オーストリア、フランス、イギリスの3大王家の人々、その廷臣たち、そこの宮廷に仕える音楽家たちの賞賛を勝ち得てしまったのである。もう、この上の栄誉はない。しかし一方、それはますます、一般人とかけ離れた「異端」の高みにモーツァルトを置くことになる。


 3年半近くにも及んだ西方大旅行からザルツブルクに帰着したのは1766年の11月29日だった。この時点で10歳と10ヶ月である。


<異端者としての最初の挫折>
 翌1769年の2度目のウィーン旅行はマリア・ヨゼファ皇女の婚礼祝賀景気を当て込んでのことだったが、折悪しく、ウィーンには天然痘が大流行して、花嫁となるはずの皇女本人が憎むべき病の犠牲となり、モーツァルトもナンネルも罹患して9死に1生を得たのがもっけの幸い、当然、何の栄誉にもありつけなかった。


 しかも、天然痘からやっとのことで快復して、マリア・テレジア女帝と長男ヨーゼフ2世に謁見出来た時、気のいいヨーゼフ2世が善意から口約束で注文してくれたのを踊り上がって喜んで書いたオペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」は、ウィーンのオペラ関係者の言語を絶する陰湿な嫌がらせに遭って、何度も書き直しを要求され、直しても、直しても突き返され、公演は延期が繰り返されてついに上演もされず、おまけに、作曲料も支払われなかった。


 父レオポルトは、あまりのことに一連の出来事の詳細を綴った「事件供述書」なる訴状を起草してヨーゼフ2世に直訴するが、悔しい結果に終わったことは言うまでもなく、父とモーツァルトは苦い涙を呑むことになった。


 これが、12歳の天才が直面した最初の大きな挫折である。そして、まさしくこれこそが、「正統」をもって任じるウィーンのオペラ界が、「異端」分子の摘み出しに成功した典型的な事例だった。


<イタリア旅行の光と影>
 しかし、モーツァルト親子はまだ負けてはいない。
 モーツァルトらは、ここまで見くびられたのは、自分たちがザルツブルクの片田舎のせいぜい副楽長とその息子に過ぎないことと、なによりも、まだ本場のオペラを体験していないせいなのだと考え、ウィーンでのリベンジを胸に誓って、次の旅行先を念願のイタリアへと定めるのである。


 イタリアへは、1769年暮れから71年3月にかけての第1回、同年夏から暮れにかけての第2回、72年10月から73年3月にかけての第3回と、全部で3回出かけた。
 その3回を見渡すと、初回が未曾有の大成功を収めたのに引き換え、次からは下り坂になっていったことがわかる。


 初回では、行きにミラノでオペラの依頼を受け、ローマやナポリにまで足を伸ばしてから、帰途にミラノでこのオペラ「ポントの王ミトリダーテ」を作曲、上演して大成功を収め、それが呼び水となって、さらに2作のオペラまで依頼されただけではなく、ローマでは「黄金の軍騎士勲章」を授けられ、ボローニャでは、栄誉あるアカデミア・フィラルモニカの会員にも推挙された。


 2回目のイタリア旅行は、ドゥカーレ劇場の依頼オペラ「アルバのアスカーニョ」の作曲と初演を目的とする4ヵ月ほどのミラノ滞在で、幸いにもオペラは大成功を収める。この成功は、ウィーン・オペラ界を見返したいモーツァルトの溜飲を下げさせたが、親子の望むミラノ宮廷への就職には結びつかなかった。


 ザルツブルクの主君が、寛大で理解あるシュラウテンバッハからそうでないコロレドに代わってからの3回目は、オペラ「ルーチョ・シッラ」の上演のための旅行だったが、このオペラはさほど成功しなかったばかりか、ミラノ宮廷にもフィレンツェ宮廷にも雇ってもらうことはできなかった。


 ミラノ大公フェルデナントも、フィレンツェ大公レオポルトも、ウィーンのマリア・テレジアの息子たちである。まだ若く君主としての経験浅い彼らは、自分の宮廷に神童出身のモーツァルトを雇って良いものかどうか、ウィーンの母に手紙で問い合わせる。


 これに対してマリア・テレジアの書いた有名な手紙は、「無用な人間を雇わないように、そして決して、そういう人たちに肩書など与えないように。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。彼はその上に大家族です」という冷徹なものだった。


 マリア・テレジアにとって、神童演奏旅行をしていた時代のモーツァルトを物珍しく思い、膝に乗せて一時の愛顧を与えることと、永続的な勤め口を提供することとは別次元の話であって、むしろ、一家をあげて派手な神童ツアーを繰り広げる一家など、秩序と良識を重んじる「正統」派の廷臣の列には、決して加えることのできない「異端」の子に他ならなかったのだ。


<パリの悲哀、ウィーンで一旦は成功するも・・・>
 こうして、イタリアでの就職に失敗したモーツァルトは、ミュンヘン、マンハイム、パリに然るべき地位を見つけたくて、母親と求職旅行に出るが、職は得られず、母親はパリに客死する。おそらく、どこの宮廷の君主もマリア・テレジアと同じような警戒感を、この天才すぎる「異端」の青年に対して抱いたのだろう。


 1781年5月から、ウィーンで独立独歩の音楽生活を開始したモーツァルトは、予約演奏会の開催、弟子へのレッスン、作曲報酬を収入の3本柱として生計を立てる。


 当初、予約演奏会の会員数もうなぎ登りに増え、裕福な弟子にも恵まれ、作曲依頼も多くあって収入に恵まれるが、後半には、急激に下り坂に向かう。その原因はいくつか推測できるが、1つにはモーツァルトの音楽が孤高の高みに達して娯楽音楽の域を超えてしまい、ウィーン人の趣味から逸脱してしまったことが挙げられる。つまり、芸術上の「異端」である。


 もう1つ、後半の下り坂時代の1789年にはフランス革命が起きて、社会が根底から揺り動かされていく。ただし、音楽家の在り方が新時代の独立独歩型へと本格的に移行するには、まだしばらく、時を待たねばならない。ところが、早く生まれすぎたモーツァルトは、一足早くその先陣を切ってしまったために、経済生活に於いても「異端」の悲哀を味わわねばならなかった。














 

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