【序章】「願望」は心のエンジンである
私たちは、なぜ挑戦するのか。失敗の可能性が高いにもかかわらず、なぜ人は自ら困難な道を選び取るのだろうか。 その問いに対し、社会心理学者であり作家でもある加藤諦三は、一貫して「願望」という内的動機の存在を提示してきた。
彼は言う。「人間が行動するのは、外部からの圧力ではなく、心の深層にある“願望”による」と。そしてこの“願望”は、生まれながらに持っているものではなく、愛されなかった経験や自己否定を通して醸成される。すなわち、彼にとっての「願望」は、単なる希望や夢ではない。それは痛みを伴う渇望であり、内なる叫びである。
この視点は、現代に生きる私たちにとって極めて重要だ。自己実現やキャリア開発といった言葉が日常化する一方で、「自分には何もない」と感じる若者や、「頑張れない自分」に苦しむ大人が増えている。このような社会の中で、加藤諦三の理論は**“本当に挑戦する人”と“諦める人”を分ける決定的な鍵**を与えてくれる。
本稿では、加藤諦三の「願望」概念を起点に、人が挑戦へと向かう心理的プロセスを具体的事例やエピソードを交えながら解き明かしていく。そして最終的に、「願望を持つこと」そのものが、どれほど人間の生を豊かにし、前へ進む力となるかを論じていく。
【第一章】願望が原動力となる心理的メカニズム
加藤諦三の理論において、「願望」は不足感や心の空白から生まれるとされている。それは、フロイトが語った「欲求」とも、マズローが説いた「自己実現欲求」とも異なる、もっと泥臭く、深いレベルのエネルギーである。
加藤はこう書く。
「愛された経験がない者は、愛されたいと願う。願望は、心に空洞があるからこそ燃える」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』
これは、一般的な「夢を持とう」「目標を持とう」という励ましとは一線を画す。彼は、傷ついた自己こそが人を動かすと明言する。そして、この視点こそが、挑戦する人間の本質を暴き出している。
たとえば、貧困や家庭不和といった逆境を乗り越え、成功を収めた多くの人々の背景には、「こんな自分を変えたい」「認められたい」という欠落から生まれた強烈な願望がある。逆に、何不自由なく育った者ほど、“挑戦”という行為の意味を見出せずにいることも少なくない。
2. 「願望」は外的報酬では動かない
加藤は、願望の源が“自己の回復”にある以上、外的報酬(地位、金銭、評価)では人は動かないと説く。彼が頻繁に用いる例が、「人に褒められたい」という願いと、「自分が自分を好きになりたい」という願望の違いである。
「褒められたい人は、他人を基準に生きる。だが、真に挑戦する人は、自分の内なる叫びを基準に動く」
―加藤諦三『生きる意味がわからない人へ』
挑戦とは、評価されるための行動ではなく、自分が生きている実感を得るための行動なのである。そのため、「なぜ頑張れないのか」と悩む人に必要なのは、環境を変えることでも、努力を重ねることでもなく、自分の本当の願望に気づくことだと、加藤は主張する。
3. 願望が不安と戦う力を与える
人は、本質的に「変化」を恐れる。不安定な状況、先の見えない未来、失敗への恐怖。これらすべてが、挑戦を妨げる要因となる。
だが、加藤は言う。
「人は不安があるから挑戦しないのではない。不安を超える願望がないから挑戦できないのだ」
―加藤諦三『不安と愛』
つまり、**挑戦とは“無謀な行動”ではなく、“強い願望が不安に勝ったときに起こる必然”**なのである。
例えば、貧困を脱したいと強く願う者が、誰もやらないビジネスを始めたり、夢のために安定した職を辞めたりする背景には、「今を変えなければ自分が壊れる」という切迫した願望がある。
この願望があるとき、人は他人に理解されなくとも、笑われても、迷わずに行動する。それは、周囲の目よりも、「自分を取り戻すこと」の方が大事だと知っているからである。
【第二章】実例① 逆境を乗り越えた若者
2000年代初頭、東京都足立区。小学生のカズヤ(仮名)は、団地の一室で母と二人、生活保護に頼る日々を送っていた。父親は彼が幼い頃に失踪し、母はうつ病を患いながら日雇いの仕事をつないでいた。小学校の担任は、彼の汚れた靴や給食費の未納に気づいていたが、問題として取り上げられることはほとんどなかった。
彼が中学に進学する頃には、家庭には一冊の本もなかった。しかし、ある日の放課後、たまたま公園に落ちていたビジネス雑誌の特集記事が彼の目に留まる。そこには、元ホームレスがIT起業家として年商数億円を達成したストーリーが描かれていた。カズヤはその記事を何度も読み返し、こう思ったという。
「この人も、最初は何も持ってなかった。俺と同じだった。でも変わった。変えたんだ、人生を」
この瞬間こそが、彼の中で「願望」が生まれたタイミングだった。“今の自分を変えたい”という強烈な欲求。それは、環境が与えたものではなく、不足と向き合った個人の中から生じた願望だった。
加藤諦三が繰り返し述べるように、「願望は与えられるものではない。それは苦しみから生まれる自己への問いかけ」である。
2. 「学ぶ」ことへの執念と孤独な戦い
カズヤは中学卒業後、家計を助けるために昼は建設現場、夜は通信制高校に通うという生活を始めた。周囲に学ぶ者はおらず、相談できる大人もいなかったが、彼の内面には一貫してこうした思いがあった。
「俺は、このままで終わるわけにはいかない。人にバカにされるだけの人生なんてごめんだ」
加藤は、こうした「怒りの変換」を高く評価する。彼の言葉を借りれば、「怒りや自己否定を抱える者が、それを“願望”に昇華したとき、人は最も強くなる」。
カズヤは、夜な夜なネットカフェで独学し、プログラミングを習得した。アルバイトで貯めたお金で中古のノートPCを買い、YouTubeと無料教材だけでスキルを磨いた。数年後、個人で受注したWeb開発の仕事が評価され、ついには小さなITスタートアップを立ち上げるに至った。
3. 挑戦の裏側にあった「見返したい」という願望
カズヤは、自らの原動力を後年、インタビューでこう語っている。
「いつも、自分を見下してきた人間の顔が浮かんでいた。でもそれがあったから、諦めなかった」
ここで重要なのは、彼の挑戦の背後には外的成功の欲ではなく、自己否定を超えて“証明したい”という願望があったという点である。加藤諦三の言葉を再び引こう。
「人が本気で挑戦するとき、それは何かを得たいからではない。自分を回復させたいからである」
―加藤諦三『心の休ませ方』
このケーススタディが示しているのは、挑戦とは偶然や才能ではなく、自分の人生を自分の手に取り戻したいという、極めてパーソナルな欲求=願望が源泉であるという事実だ。
4. 挑戦する者に共通する「願望の質」
カズヤのような人物に共通するのは、願望の強さ以上に、その**“質”の深さである。外的な成功よりも、「自分という存在を証明したい」「価値を持ちたい」という内的エネルギーの持続性**こそが、困難を乗り越える力になっている。
加藤諦三の理論によれば、「本物の願望」は、時間が経っても色褪せない。それは、人間の“生の証明”に関わるからである。カズヤの物語は、まさにこの真理を体現している。
【第三章】アスリートの精神的成長
―限界を超える者たちと「願望」の力―
1. 「記録」より「生きる意味」を問う挑戦
スポーツの世界では、しばしば「限界に挑戦する人間」の姿が称賛される。自己ベストの更新、世界記録の樹立、金メダルの獲得──。だが、本章で焦点を当てるのは、単なる結果ではない。“なぜ、そこまでして挑むのか”という動機の根源である。
多くの一流アスリートが語るのは、「他人に勝つため」よりも、「昨日の自分を超えたい」という内向きの言葉だ。そこにあるのは、加藤諦三が語る「心の欠如から生まれる願望」そのものである。
加藤は述べる。
「強い人間とは、他人に勝ちたい人ではない。自分を乗り越えたい人だ」
―加藤諦三『心の深層を知る』
記録は一つの目標にすぎない。だが、その背後には、「存在証明をしたい」「愛されなかった自分を超えたい」という、深くて複雑な感情が流れている。
2. 内村航平に見る“挑戦”の美学
元体操選手・内村航平は、オリンピック金メダルを複数回獲得し、「キング・オブ・ジムナスティクス」と称された。だが、彼の真の強さは、勝ち続ける理由にこそあった。
内村はインタビューでしばしば、「美しい体操をしたい」と語っている。「勝ちたい」ではなく、「自分が理想とする演技を、完璧に近づけていく」ことが、彼の原動力だった。
これは、加藤の言う「外的評価ではなく、内的願望が人を動かす」という理論に見事に符合する。
「自分の中に“こうありたい自分”がいる。その自分とどれだけ向き合えるか」
―内村航平(NHKスポーツ特集インタビュー)
ここでの「こうありたい自分」は、加藤がたびたび指摘する「理想自己」である。内村は、その理想像に少しでも近づくことを通じて、自分の存在を認めていたのだ。
3. スポーツにおける「願望の進化」
幼少期に「負けたくない」「褒められたい」から始まった動機が、やがて「自分に勝ちたい」「自分を証明したい」という高次の願望へと昇華されることがある。これが、アスリートの精神的成長の本質である。
加藤はこのプロセスを、**「心理的未成熟からの脱却」**と呼んでいる。
「子どもの頃は、評価されたいと願う。大人になるとは、自分の願望に忠実であることだ」
―加藤諦三『大人になるということ』
つまり、願望は成長する。外向きだったものが、内向きに変わる。その変化こそが、人を“本気の挑戦者”に変える。
この観点から見ると、「燃え尽き症候群」に陥る選手と、生涯競技を愛し続けられる選手の違いが明確になる。“誰かに勝つ”ためのモチベーションは限界があるが、“自分の本質と向き合う願望”は持続するのだ。
4. 若きランナーのエピソード:無名高校の逆襲
高校駅伝で注目を浴びたある無名校のエース、ミツル(仮名)は、元々不登校気味で自己評価の低い少年だった。走ることを始めたのも、「自分を認めたい」という思いからだったという。
「何もできないって、ずっと思ってた。でも、走るときだけ、自分を肯定できた」
朝誰よりも早くグラウンドに現れ、夜遅くまで残る。雨でも雪でも走る。彼を突き動かしていたのは、「全国大会に出たい」ではなく、「走っているときだけ、自分が生きていると感じる」という内なる願望だった。
彼のようなケースは、加藤諦三が再三述べる「愛されたい願望が、自己実現の願望に転化された好例」である。環境や外的条件ではなく、“心の渇き”が人間を進化させるのだ。
5. 「願望」が限界を超えさせる
アスリートの挑戦は、単なる肉体の鍛錬ではない。それは、「誰にも理解されない自分の思いを貫く」精神の戦いでもある。
だからこそ、トップ選手ほど繊細で、孤独で、芸術家のような精神構造をしていることが多い。彼らはみな、自らの願望と対話し、それを唯一の指針として戦っている。
加藤は言う。
「人は願望を持つ限り、決して壊れない。願望の火が燃えていれば、どんなに倒れてもまた立ち上がれる」
―加藤諦三『生きる力を取り戻す』
【第四章】願望が壊れるとき
―負のエネルギーの扱い方と願望の再構築―
1. 願望は常に“光”ではないこれまで私たちは、「願望」が人を挑戦的にし、自己成長の起爆剤になることを見てきた。だが、すべての願望が健全に機能するわけではない。願望が壊れたとき、あるいは歪んだとき、人は自己破壊に向かうことすらある。
0コメント