最初期の女性作曲家 クララ・シューマン

松崎楓ピアノ教室(https://www.cherry-piano.com)
お気軽にお電話下さい!
TEL.0154−64−7018
お問い合わせメール:niku_kaede@icloud.com
釧路市浦見8丁目2−16

 クララ・シューマンは音楽史に於ける歌手以外の女性演奏家、女性作曲家として最初期の一人である。それ以前の音楽史に出てくる女性は、歌手を除くと、「バッハの妻」とか「モーツァルトの姉」とか「モーツァルトの悪妻」のように、誰かの家族として登場し、演奏家だったり作曲家だったりしたわけではない。人格をもって女性として音楽シーンで活躍し、歴史に名を残した最初の人である。


 クララ・シューマンは1819年にライプツィヒで生まれた。後に夫となるロベルト・シューマンの9歳下である。父フリードリヒ・ヴィークはピアノ教師、音楽書店の経営者だった。母はピアニストだったが、クララが6歳の年に離婚した。


 クララは天才少女として音楽シーンに登場した。それまでも貴族や富豪の娘や妻はピアノを演奏していたが、あくまでも家庭で楽しむためであり、彼女たちは興行していたわけではない。クララはプロの女性ピアニストとして大成功した最初の人である。といっても、クララはコンテストで優勝してデビューしたわけではない。この時代、まだコンテストなるものは存在しない。彼女は高名なピアノ教師の娘だったので、その才能が幼い頃に見出され、父によって鍛えられて、デビューしたのである。作曲の勉強もさせられていた。


 父のもとにシューマンが弟子入りしたのは、1828年、クララが9歳になる年だった。その時はまだ恋愛関係にはならなかったが、シューマンが他の女性に失恋した後、急接近し、恋に落ちた。その恋が深まるのと並行して、女性ピアニストとしてクララの名声は高まった。パリやウィーンへも演奏旅行に行き成功した。一方のシューマンはまだ才能が世間に認められていない。9歳下のクララのほうが音楽家としてはるかに格上になっていた。


 だからヴィークは二人の結婚に反対する。シューマンは彼の弟子ではあったが、指を痛めたためピアニストにはなれず、作曲家になったとはいえ、先行きに不安があった。とても音楽史上に残る大作曲家になるとは思えなかったのである。そんな奴に、一流ピアニストにまで育て上げた大事な娘をやるわけにはいかん、というわけだ。しかし、二人は結婚を諦めない。訴訟まで起こして、ようやく1840年に結婚した。


 二人の結婚生活は順調であるかのようだった。クララはピアニストとしての仕事も続けながら、シューマンを支えた。だがシューマンは、もともと繊細で感受性が強かったことから、やがて精神の均衡が取れなくなっていく。自分よりも妻のほうが有名で収入が多い。プライドの高い男性が陥る、よくある話でもある。


 そんな1853年のある日、音楽会でそれなりの大物だったシューマンのもとを、ひとりの青年が訪れた。1833年生まれのブラームスである。この年の誕生日でシューマンは43歳、クララは34歳、そしてブラームスは20歳。3人がこのような年齢差であることを確認する必要がある。


 シューマンは若きブラームスの才能を高く評価し、ブラームスはシューマンを尊敬して慕い、頻繁にシューマン家を訪れるようになった。やがてシューマンはクララとブラームスの仲を疑うようになり、そういう自分がいやになり、精神的に追い詰められていく。


 1854年、ついにシューマンは投身自殺をはかってしまう。そのときは助かるが、精神病院に入ることになり、結局、1856年に亡くなる。
 未亡人となったクララをブラームスはその後も献身的に支えた。他の女性との恋愛もしたが、結局、ブラームスは生涯を独身で通した。そして、1896年にクララが亡くなると、その翌年、後を追うようにしてブラームスも亡くなるのである。

 














チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)/北海道釧路市ピアノ教室/cherry-piano.com

(1)大好きな「憧れの曲」が必ず弾けるようになるピアノ教室です。(2)初心者から上級者まで、クラシックに限らず様々なジャンルの曲に対応する釧路市のピアノ教室です。(3)ダルクローズのリトミックを取り入れた子供ピアノ教室です。(4)釧路市内の発表会で演奏するチャンスがある教室です。(5)楽しみながら上達する超絶技巧と科学的脱力奏法を伝授します。(6)YAMAHAのグランドピアノC2を使用しています。