リトミック

 ダルクローズのリトミック

 ダルクローズのリトミック教育の考え方は、ダルクローズが教えたソルフェージュのクラスから生まれました。ダルクローズは、生徒の多くが、ハーモニーを単に数学的に分析し、音楽を知的に理解しているために、感覚を通して感動を起こすという音楽の真の姿を理解出来ていないことに気が付きました。


 ダルクローズのソルフェージュのクラスの中に、聴いたり歌ったり、音や音程の認識は正確なのに、与えられたテンポに合わせたり、同じ速さを保つことが出来ない少年がいました。ある日、その少年がダルクローズの目の前を歩いているのを見た時、ダルクローズは、人間のリズミカルな歩行の流れは、リズムの中にある拍の流れと同じであることに気が付きます。そして、この少年が、本来自分自身の身体に持っているリズムの感覚を、自分自身で意識することによって、この少年のリズム感覚の弱点を解決出来るのではないか、と考えたのでした。教室に戻ったダルクローズは、生徒達を裸足にして自由に歩かせ、ダルクローズはそれに合わせてピアノで即興的に音楽を付けました。これが、リトミック教育の始まりです。従って、ダルクローズがはじめに手がけたソルフェージュ、そして身体の動きを通して学ぶリトミック、その場に応じた即興演奏が、リトミック教育の柱になります。


 ダルクローズは、我々が音楽を感知し、理解し、経験する時には、耳が音を受け止め、全ての神経系統がリズムを受け止めるという、2つの身体の働きがあることを発見しました。そして、人は、筋肉で捉えたリズムと、刺激を伝える神経をより鋭敏に発達させることにより、耳で受け止めた音楽を身体で再現することが出来ます。従って音楽の感動を、全身の筋肉と神経によって具体化できると考えました。


 ダルクローズの音楽に対するアプローチは、個人の美的感覚の育成の上にある、音楽成長にあります。学習に於いて、個人の経験を大切にしたダルクローズは、生活の中で経験する歩く、揺れる、まわる、ひねるなどの動きを通して、音楽を理解させようと考えました。


 どのクラスに於いても、教師は、生徒が音楽の要素を理解するための経験を提供しますが、その活動は、生徒達にとって親しみの持てる、心地よい題材で始めます。
 ベネット・レイマーは、美的感覚の発達の中で、美学の目的は、感性的な認識力を発達させること、つまり芸術作品(客体)の過程や結果の価値判断にあるとしました。我々は普通、ある美的感覚を持っていて、その発達の中には、(1)芸術作品(客体)の過程や結果を、受け止める段階と、(2)受け止めたものを、感情意識でとらえ、考察、認識するという2つの段階があります。美的経験は、個人の知覚の質によるので、個人の知覚の発達は、美学の踏み台となるとしています。


 エリオット・アイズナーは、「刺激は美的感覚の大切な源」で、疑問に対して如何に対処するか、という事の大切さを述べています。疑問は、探求し解決した時に、満足感が生まれ、その結果ではなく、そこに至る過程が大切であり、それこそが、自分自身の開発や発見の経験であるとしています。


 ジェームス・マーセルは、音楽的成長は、連続的な過程であり、「我々は、外に見える物よりも、むしろ内部にあるものをつかみだすべきである」と述べています。また、リトミックは、有効な意味のある教育であるとしています。


 ダルクローズは、2冊の小論文のコレクション「リズムと音楽と教育」「リトミック・芸術と教育」そして、リトミックを理解する上で、音楽の要素を通して音楽にアプローチする手がかりのための、多くの動きの課題を残してはいますが、方法論は述べていません。一番大切なことは、音楽を理解し、音楽を作っている要素を通して、音楽的成長の道を見つけることで、個々の教師に対して、ダルクローズはいつも、彼の考え方を発展させて、各々のクラスに当てはめて欲しいと望んでいました。


 リトミックのレッスンでは、教師がピアノを即興演奏し、生徒はそれを聴き、自分自身の身体の体重移動を使って、空間の中を動き、音楽に対応します。従って、教師の演奏する音楽は、身体の動きの「音のイメージ」になります。つまりリトミックは、自分自身がレッスンに参加して、音楽に身体を感応させることによって、音楽に対応する感情を動きの形で表現することになり、心と身体が結びつくことになります。


 1933年にダルクローズ本人より学んだジョン・コールマンは、「リトミックそれ自身は芸術ではないが、全ての芸術のための準備である」とし、「リトミックのレッスンは、常に新しい音楽経験の積み重ねでなくてはいけない」としています。


 また、コールマンは、空間での体重移動は、音楽のリズムそのものの経験であり、「その場だけの上半身の身振りや、単に手をたたいたり、ドラムを叩くということだけでは、音楽の流れを真に経験することは出来ない」としています。


 つまり、身体の体重移動を通して、体内に潜在しているリズムを引き出し発達させることによって、まず自分自身の身体が、楽器となり、音楽を再現することが出来るわけです。ダルクローズのリトミック教育の総体の目的は、ダルクローズのいう「心と身体」の確実な関係を確立することにあります。


 リトミックでは、課題やゲームのために、教師が即興演奏をします。教師の即興的に演奏された音楽に導かれて、生徒は動きます。即興演奏は、生徒の反応に応じて、自由に発展、展開させることが出来るので、必要な要素を自由に取り入れ、変化させることが出来ます。また、リトミックのレッスンは、繰り返し同じことを経験するのではなく、常に新しい音楽への挑戦なので、リトミックに於ける即興演奏は、教師と生徒間の予測のつかないチャレンジになり、集中力、注意力、創造力が要求されます。


 ダルクローズは、歩くという自然な動きの中に、音楽の強弱、速遅、拍子などの変化から、動きのための多くの表現手段があることを認識しました。音楽は、動きであって「音は、決して静止しているものではなく、常に流れている」。従って、音楽に感応しての身体表現は、聞こえる音楽の流れの強さ、速さ、重さ、アクセント、ニュアンス、拍子、フレーズ、方向、色彩などの全ての要素を再現出来ます。


 様々な動きの経験は、筋肉運動感覚として、身体に蓄えられます。この筋肉運動感覚を、ダルクローズは、第6番目の感覚と呼び、身体の中に蓄積する(内面化する)ことにより、必要に応じて呼び戻すことが出来ます。つまり、演奏という局面で、リトミックでの経験を生かして使うことが出来るようになるわけです。


 ダルクローズの音楽へのアプローチは、心理学者の精神分析の考え方と共通しています。つまり、心理学者が人間を客観的対象として観察し、心の動きや行動を分析研究するように、ダルクローズは、音楽概念や音楽表現のメカニズムを分析することによって、音楽の要素の本質を捉えようとしました。そして現実の音楽に存在するテンポ、拍、拍を細分化したもの、リズムパターン、アクセント、フレーズ、拍子、変拍子、不等拍子、サイレンス、複合リズム、音楽形式等の基本的な身体表現をはじめとして、アナクルーシス・クルーシス・メタクルーシス、フレージング、シンコペーション、縮小・拡大、複合リズム、拍子、カノン、2対3・3対4などのリズム、補足リズム、3/4拍子と6/8拍子の変換を、リトミック(身体による理解)で学ぶことによって、音楽構成の仕組みが、より明確になると考えました。これらのテーマは、ダルクローズ・サブジェクツと呼ばれています。


 リトミックのレッスンでは、音楽の中にあるダルクローズ・サブジェクツを、4つの基本的なプロセスを通して学びます。


 1 フォロー(音楽の流れと同時に自然な運動で、音楽に従う)
 2 クイック・レスポンス(音楽へのすばやい対応)
 3 カノン(一定の間隔を置いて音楽を追いかけて再現する)
 4 プラスチック・アニメ(音楽を目で見える表現に仕上げる)
プラスチック・アニメはダルクローズの独特な音楽表現ですが、音楽を、動きを通して再現しようというもので、ダンスや踊りとは基本的に違います。音に対する筋肉感覚の蓄積は、やがて美的活動を誘発することが出来ます。ダルクローズ・サブジェクツで学んだ音楽の要素は、音楽作品の中では、感情表現が伴うために、微妙な、強さ(ダイナミクス)と速さの変化(アゴーギク)が生まれます。プラスチック・アニメは、作品の中にある本能的なリズムの感覚と、音楽の生命力を経験出来るわけです。


 これらのプロセスは、身体活動だけでなく、楽器(身体をたたいても音が出ます)を使って、歌(口を使って面白い音も出せます)を使ってなど、質感の違ったいろいろな音や方法を使って経験しますので、ダルクローズ・サブジェクツを、4つのプロセスを通して捉えることは、音楽を多面的に捉え、強いては深く理解することになります。


 リトミックには、「理論は経験の後で」という原則があります。ダルクローズは生徒達に、まず自分自身を知ること、そして、身体的、知的成長の上に、社会の一員として調和し、自分自身を上手に表現出来るようになることを求めています。


 「聴くからだ」と「演奏するからだ」をつくる音楽教育の基礎

 リトミックは、スイスの作曲家エミール・ジャック=ダルクローズが開発した、音楽を身体の動きを通して教える教育法として知られている。音楽のリズムと身体の動きから生まれるリズムを関連させ、音楽と共に動くことによって、リズム感や音楽に対する愛着を養ったり、動きのイメージや身体で生み出したリズムを、音や音楽で表現したりする活動が、一般的なリトミックとして日本に定着している。


 ジャック=ダルクローズは、ジュネーヴの音楽院で和声学とソルフェージュを教えていた時に、当時の音楽家養成のシステムが、学生たちが今後のより高度な音楽訓練のために身に付けておくべき各種の音楽能力を、訓練の速い段階で身に付けさせることができないでいることに気が付いたという。そして、読譜や記譜という知的な訓練の前に、そこに書かれている音を聴く力が培われている必要があり、楽器演奏などの技能訓練の前に、自分が奏でている音を聴く力や音を想像する力が養われているべきであると考えた。訓練の早い段階とは、「身体と脳が平行して発達していて、絶え間なく印象や感覚を互いに伝え合っている」時期であり、この時期に、音楽に対する感受性やリズムに対する感覚を研ぎ澄ます体験を十分に積んでおくことが、後の音楽学習の基礎として重要であることを主張したのである。


 ジャック=ダルクローズは、リズムやダイナミックスといった音楽の力動的な要素の知覚は、聴覚だけに頼っているものではなく、筋肉感覚とそれらを司る神経系全体の働きによって可能になると考えた。そして、「本来リズミカルな性質のものである音楽的感覚は、からだ全体の筋肉と神経の働きにより高まる」という見地から音楽教育の体系化を試み、それがリトミックとして世に出ることになったのである。


 ジャック=ダルクローズのリトミックは、その教育法の全体をリトミックと考える場合と、リトミック、ソルフェージュ、即興演奏という3つの柱のうちの基礎の部分、すなわちリズム運動などと呼ばれている学習をリトミックと呼ぶ場合がある。教師の弾くピアノに合わせて子どもたちが動く活動や、幼児教育に於ける音楽を伴った身体表現活動がリトミックと呼ばれている場合には、後者の使われ方が主流となっていると見ていいだろう。リズム運動などと呼ばれている学習に関しては、教則本やマニュアル本が多数出版されていることで、よく知られている一般的なリトミックであるが、前者のようにその全体をリトミック教育法と考えると、ジャック=ダルクローズが意図した音楽教育の全貌がよく見えてくる。まず、最初に行われるリズム運動は、筋肉組織と中枢神経の特訓により「身体的なリズム感覚」を養うと同時に、耳の特訓により「聴覚」を養うことを目的としている。そして、リズム運動を1年間ほど経験した後に並行して始められるソルフェージュは、音のの高さや音同士の相互関係を感覚的に理解することと、それぞれの音色を識別する能力を養うことを狙いとしている。そして、即興演奏はリズム運動とソルフェージュで養われた身体感覚、特に触覚と聴覚を駆使して、ピアノによる音楽的思考の表現を目的としたものである。


 リトミックをダルクローズ音楽教育の全体を指すものと考えるか、あるいは3本柱の1本と考えるか、という解釈の違いはあるとしても、重要なことは、身体的なリズム感覚と聴覚とを同時に訓練することが、音楽能力の基礎をつくることをジャック=ダルクローズが提唱したことである。そして、もう1つ注目すべきことは、ジャック=ダルクローズが身体と脳、つまり筋肉感覚と中枢神経のメカニズムに注目しながら、自らの音楽教育論の根拠を説明しようとしたことである。21世紀の現在では、心理学はもとより身体論や脳科学に関する研究が飛躍的に進み、これらに関連する話題がジャーナリズムを賑わしている。しかしジャック=ダルクローズは、既に今から100年も前に、現代に於いても科学と対局にあると考えられる傾向の強い芸術分野に於いて、これらの知見をその科学的検証を予見するようにして、自らの音楽教育の根幹に据えていたのである。


<脳、神経系、身体、そして聴覚>

 現在、人間の脳が大脳皮質と呼ばれる構造を持ち、これらが聴覚、視覚、体性感覚のような各種感覚機能を担う場所に分かれていることは良く知られている。大脳皮質にはニューロンと呼ばれる神経細胞が存在し、それぞれのニューロンは細胞体から伸びる樹状突起(デンドライト)から成り立っているが、その中でも長く伸びた1本が軸索(アクソン)と呼ばれ、この軸索が他のニューロンと繋がって信号を伝達していく。この結合部分はシナプスと呼ばれ、電流が、軸索に分布するチャンネルを、次々に開いていくことによって信号が伝達されていくが、最後にきたところで、信号を送る側の、シナプス前細胞にある小胞に含まれている神経伝達物質が放出される。神経伝達物質は、信号を受ける側のシナプス後細胞の受容体で受け取られる仕組みになっており、膨大な数のニューロンが脳の様々な場所で、瞬時に電気的かつ科学物質的な爆発を繰り返しながら回路を作り上げている。それぞれのシナプスはユニークな活動ユニットを作り出すが、これらはそれぞれ独立の成り立ちとその記憶を持っており、それぞれが特有の機能を担いながら常に変化する流動的な性質を持つことが、観察・実験から明らかになってきている。


 以上のような神経細胞のメカニズムは、脳が筋肉からの信号を受信し、その信号をまた筋肉に戻していくことから成り立っている。つまり、ニューロンの結合は私たちがいかに身体を動かすかということと共に、その動いている身体から私たちがどのような情報を得るか、つまりどのような感覚を得るのか、ということを条件にして常に変化している。同時に、脳は常に私たちの感覚を誘発する身体の動きをコントロールしており、このような脳と身体反応の回路を通して知覚が生まれるのである。知覚はそれぞれの脳の持つ歴史や記憶、様々な経験が積み重なった感覚の集合体といったものと連合し、その時に経験している感覚をこれらの集合体に融合させながら、次に何をしていくべきかという予想を立てる瞬間に生まれる。


 ジャック=ダルクローズの開発したリトミックは、聴覚と筋肉感覚を協働させる訓練によって、音楽を知覚する瞬間に、それぞれの脳の持つ感覚の集合体をより強く連合させ、その知覚を自分にとってより鮮明で意味の深いものにすることを目的としている。ジャック=ダルクローズはこのような身体運動と聴取を結び合わせた筋肉・聴覚訓練を、他の音楽学習に入る前に十分行う必要性を指摘し、「身体的な動きの実践は、脳の中にイメージ(心像)を呼び覚ます。筋肉の感覚が強まるほどに、心像もより明晰かつ的確になり、その結果、拍子とリズムの感性が正常に発達する。なぜなら、感性は感覚から生まれるからである」と述べている。このような感性をジャック=ダルクローズは「内的な音楽的感覚」と呼び、音楽能力の根底にあるべきものとして、何よりも重要な基礎能力と考えたのである。


「聴くからだ」から「演奏するからだ」へ

 筋肉感覚と聴覚を協働させるリズム運動の訓練により、まず内的な音楽的感覚を身につける。この基礎的な訓練を取り出してリトミックと呼ぶことは、先に述べたとおりである。そして、ソルフェージュを通して、自らの声でその感覚を確かめながら表現し、同時にその声を自分の耳で確かめる訓練を積む。内的な音楽的感覚はそこでより確かなものになり、その自然な結果として、今度は感覚的に自分の筋肉感覚と声で理解しているものを、自分自身のアイデアで音楽に表現する即興演奏へと進んでいく。この発展していく3つの柱が「聴くからだ」から「演奏するからだ」へと発達させていくジャック=ダルクローズの音楽教育の体系である。


 このような体系的な訓練を必要とするジャック=ダルクローズのリトミックは、楽器演奏の技能の習得のように、経験を積みながら継続して訓練を行うことでその効果が発揮されるので、原則的には「身体そのものが私たちの感情をじかに表現する楽器」になるまで続けられなければならない。ある活動がリトミックのように見えたとしても、その目的や活動を行う脈絡が前述した体系のなかに位置付けられるかどうか、ということがここでは大きな意味を持ってくる。ジャック=ダルクローズは筋肉と呼吸の訓練から始まり、音楽フレーズをグループで身体表現するまでの22のレッスンを提示しているが、その中から使えそうなものを取り出して一度や二度、例えば、教師のピアノに合わせて歩行する活動を、音楽の授業の導入部分に使ったとしても、ジャック=ダルクローズの意図した教育効果を期待することは、残念ながら難しいだろう。何のためにこのような活動を自分の授業に取り入れて、どのような効果を期待するのか、ということが教師に把握されていないと、子どもたちが音楽に身体反応をしたり、音楽のリズムパターンや、質的な特徴のある部分を模倣して身体表現したりしている姿をもって、その活動の目的が達成されたと思いがちである。リトミックの目的は前述したように、聴覚と筋肉感覚とを同時に働かせながら、内的な音楽的感覚を発達させていくことにあるので、身体反応や身体表現はその方法やメディアであって、その目的ではないからである。


 リトミックは徐々に子どもたちの中に、彼らの脳と神経システムの中に、音楽を演奏したり創造したりするための基礎となるところの音楽的感覚を育てていく教育法である。たとえ計画した内容を一回のレッスンで子どもたちが全て完璧にやりこなしたとしても、そのやりこなした瞬間にその経験が次のレッスンへの土台と導入となっていくので、短期間のうちにその効果を過信することは出来ない。またリトミックの活動がうまく出来たかどうかということが、音楽的感覚が身に付いたかどうか、という評価の指針になることもない。内的な音楽的感覚は、個人の脳の持つ歴史や記憶、様々な経験が積み重なった感覚の集合体と、その時に経験している感覚とが融合し、次に何をしていくべきかという予想をたてる瞬間に生まれる音楽的な知覚の集大成であり、そう簡単に外側からのぞき込み、その良し悪しや程度を判断することは出来ないからである。しかし、リトミックの直接の効果はよくみえてこなくても、時間をかけて育んだその能力が子どもたちの「聴くからだ」や「演奏するからだ」に間接的に花開くときが、リトミックを教えるものにとって最も手応えを実感する瞬間なのである。


 子どもたちの「聴くからだ」がじっと静止して、音楽に聴き入っていることがある。リトミックの経験を積んだ子どもたちは、まず音楽の中に現れ、刻々と変化する動きの要素を聴き取り、その要素が誘発する動きのイメージを、自らの筋肉感覚に頼りながら心の中でなぞっていることが多い。音楽に現れる動きの要素とは、例えばランガーが「聴覚のためだけに存在している実質的な動き」と述べ、インガルデンが「音楽の音のない要素は動きである」と語っている要素であり、近年、音楽心理学や音楽認知学の分野で意欲的に研究されるようになってきている。子どもたちの個人的で主観的な音楽のイメージは、この音楽の動きの要素の知覚が基になって、過去の記憶や感覚の集合体が活性化されることによって呼び覚まされるものである。


 子どもたちの「演奏するからだ」は、音楽に現れるある動きの要素を知覚した「聴くからだ」が、その筋肉的な感覚を、実際に音を通して確認しながら、自分にとって興味深い音のかたちとして表現するからだである。これは聴いた音や音楽のモチーフを模倣し、再現するだけにとどまらず、ある筋肉感覚から誘発された動きのイメージを要素として、即興的な音楽表現を行うことであり、ここまできたところでジャック=ダルクローズの音楽教育法の3本の柱の全体像がみえてくるのである。


まとめ

 リトミックがダンスと混同されることがある。音楽的なダンスは、見るものにとって、リトミックの要素を多分に彷彿させるものであるが、見られることを意識するダンスはリトミックではない。内的な音楽的感覚を備えたダンサーの踊りは、まさにその身体が楽器の役目を果たしているようであり、その訓練され研ぎ澄まされた筋肉は、音楽の質的な変化をなぞるように、いとも易易と表現する。しかし、ダンスがリトミックと異なるのは、見られるために必要とされる音楽と動きの一致を、動き手が常に音楽よりも先に身体の準備をすることによって可能にしている点である。リトミックは聴覚と筋肉感覚を協働させる訓練なので、動き手は必ず音を聴いてから身体反応をしている。見る者にとっては、音楽と動きが常にずれて見えることになるので、ダンスとして鑑賞しようとすると見苦しさがあるのである。しかし、このずれの見苦しさを解消しようとリトミックをダンスのように洗練させようとするとき、それはまさしくダンスになるのであって、リトミックではなくなる。音楽を聴取しながら、音楽の動きの要素を身体表現することを楽しんで、自分のために一人で踊るダンスがあるならば、それはリトミックに近いものといえるのかもしれないが、このようなダンスが幼い子どもたちによく見られるのはとても興味深いことである。


 ある活動をみてそれがリトミックなのか、リトミックでないのかということを判定することは難しいし、またそのように考えることにあまり意味があるとも思われない。重要なことは、ジャック=ダルクローズの音楽教育法に於いては、聴覚と筋肉感覚を協働させるリズム運動の訓練により内的な音楽的感覚を身につけることがリトミックであり、そのためには、少し乱暴な言い方かもしれないが、どのような新規な方法が用いられようとも、その目的を果たせるのなら構わないと考えるのである。同様に、リトミックのように見える活動であっても、例えば、決まりごとのように、四分音符を歩く、八分音符は走る、といった活動を、子どもたちが飽きてしまうまで惰性のように続けても、それはリトミックの本質からは外れていることになるだろう。


 一般的に考えられているように、ジャック=ダルクローズの時代とその弟子たちが世界中にそのメソッドを広めていった当初は、ピアノの即興演奏がリトミックに於いて中心的な役割を果たしていた。しかし、現代ではその頃と比べることが出来ないほど、音楽のメディアがそのジャンルと共に多様化されてきており、アイディア次第で他の楽器を使ったり、録音された音楽を活用したりすることが十分できるようになった。ピアノで即興が出来ることは、子どもたちと文字通り即興的な音楽のやり取りをする上で大きな強みではあるが、ピアニストとして高い技能をもっている教師が、自分の即興する音楽に気を取られて、子どもたちの自分の音楽への反応に気が付かなかったり、子どもたちからのアイディアの提示に応えられなかったり、ということはよくあることである。そのために、リトミック教師としての資格を取るために行われる訓練では、音楽大学でピアノを学んできた人たちに対しても、どのようにピアノを弾きながら次の活動への指示を出すか、どのように目の前の人たちの動きへの応答としてピアノを演奏するか、といったピアノの演奏家には求められない能力の開発が課されている。


 自分が得意とする楽器の特性を使って、あるいは声を使って、子どもたちと生き生きとした即興的な音楽のやり取りができること、教師自身がそのことを楽しめるようになることが、リトミックを教えるために最も必要とされることである。そして、子どもたちの「聴くからだ」と「演奏するからだ」を健やかに成長させていくために、どんなに短いレッスンになろうとも、毎回の授業の中で子どもたちが楽しみながらできる、聴覚と筋肉感覚を協働させるリズム活動を継続していくことが重要なのである。


チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)
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